石川啄木の短歌には、悲しみや寂しさだけでなく、涙を流したあとの不思議な心の変化を描いた作品があります。『なみだなみだ』もその一首で、涙によって心が洗われ、思いがけない気持ちが生まれる様子が詠まれています。
本記事では、この一首に込められた意味をたどりながら、涙を「心を洗うもの」として描いた表現の魅力と、その先にある意外な心の動きを味わっていきます。

涙で心を洗うという表現も印象的ですが、結びの「戯けたくなれり」が、一首に独特の面白さを生んでいますね。

思いきり泣いたあと、ふと気持ちが変わることってありますよね。涙のあとに訪れる不思議な心の動きを、一緒に感じてみましょう。
『なみだなみだ』の意味|涙が変える心の不思議


なみだなみだ 不思議なるかな それをもて 洗へば心 戯けたくなれり
読み方:なみだなみだ ふしぎなるかな それをもて あらえばこころ おどけたくなれり
意味:涙というものは不思議だなあ。その涙で心を洗うと、なぜか戯けたくなる――涙を流したあとに訪れる、思いがけない心の変化を詠んだ一首です。
石川啄木の生涯や人物像について詳しく知りたい方は、Wikipediaの「石川啄木」も参考になります。
涙で心を洗うという不思議な表現
涙は、悲しみや苦しみがあふれたときに流れるものです。
ところが啄木は、その涙を、心を洗うことのできるものとして描いています。冒頭の「なみだなみだ」という繰り返しから、「洗へば心」という表現の魅力へ進みます。
それをもて 洗へば心
水で汚れを洗い流すように、涙で心を洗う。目に見えない心を、まるで洗えるもののように描いているところに、この一首の面白さがあります。

涙は目から流れるのに、その涙で心を洗う。目に見えない心の動きを、身近な行為として描いているんですね。
涙を流しても、悲しみの原因が消えるわけではありません。それでも、泣く前とは違う気持ちが生まれることがあります。
けれど、心が洗われた先にあるのは、なぜ「戯けたくなる」という気持ちなのでしょうか。
なぜ涙のあとに「戯けたくなる」のか?
涙で心が洗われる。それなら、気持ちが晴れたり、穏やかになったりする姿を想像するかもしれません。
しかし、啄木が選んだのは、「戯けたくなれり」という言葉でした。
「戯ける」とは、ふざけたり、おどけた振る舞いをしたりすることです。ただ悲しみが薄れるのではなく、そこから少し滑稽な気持ちが生まれているのです。
実は、『一握の砂』には、この短歌の直前に次の一首が置かれています。
『一握の砂』より|直前に置かれた一首
鏡とり 能ふかぎりの さまざまの顔をしてみぬ 泣き飽きし時
泣き飽きたとき、鏡を手に取り、できる限りさまざまな表情を作ってみたという歌です。
泣いたあとに、鏡に向かって変な顔をしてみる。
そこには、悲しみから立ち直った立派な人物の姿ではなく、悲しみの中にいながら、どこか滑稽な行動をする人間の姿があります。
この二首を続けて読むと、「戯けたくなる」という言葉が、ただ明るくなったという意味だけではないことに気づきます。
涙を流したあと、急にふざけてみたくなる。悲しい気持ちと、おかしなことをしたくなる気持ちは、必ずしも矛盾しないのかもしれません。
涙のあとに見えてくる、もう一つの心の表情
涙で心を洗うという表現には、悲しみを流し、気持ちが軽くなるような美しさがあります。
けれども、啄木が描いたのは、ただ晴れやかな心ではありません。泣き飽きたあとに鏡の前でさまざまな顔をしてみる姿を思い浮かべると、「戯けたくなれり」という結びが、いっそう身近に感じられます。
悲しみが消えたから戯けるのではなく、悲しみを抱えたままでも、ふとおかしなことをしたくなる。 そんな心の動きも、この一首から読み取れるのではないでしょうか。
「なみだなみだ」と涙を見つめていた一首は、最後には、人間の心が持つ思いがけない軽やかさへとつながっていきます。
涙のあとに生まれる気持ちは、必ずしも一つではありません。その変化を美しく整えすぎず、少し滑稽なまま描いているところに、啄木の短歌の魅力があります。
石川啄木の短歌をさらに味わいたい方は、代表作10首をまとめたこちらの記事もおすすめです。

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